子宮内膜症闘病記1
私はそんなに生理痛がひどくなかった方だと思う。少なくとも高校生の頃までは。高校の時何度か痛み止めの薬を飲んだ記憶はあるが何となく腰が重いという感じで、体育や試験さえなければ薬なしでも何とかなっていただろう。それより何より、「生理中は痛くて当たり前、生理痛は病気ではない」という言葉を無邪気に信じていたから痛みに対して疑問に思ったことなどなかった。病気が忍び寄ってきたのは恐らく大学に入ってからだろう。
私は、京都の大学まで毎日通っていた。大学はかなり市内の北の方にあり、京都駅からはバスで行くしかなく、お世辞にも交通の便がいいとは言えない所から通ってることとも併せて、往復4時間半かかっていた。しかも比較的まじめな大学生だったので毎日毎日満員電車、バスに揺られて座ることも出来ずに通っていた。これは、今まで幼稚園から高校まで徒歩か自転車で15分程度の通学時間だった私にはかなり体力的にきつかった。何で下宿しなかったかというのは家族の問題なので、ここでは関係ないため触れないけれど、大学の周りに下宿のあるクラスメートが、かなり羨ましかった。もちろんこの長い通学時間が理由の一つであるとは言い切れないのだけれど、(何しろ、医学的に理由が確定されていない病気です。)最初の”激痛”は大学1年のクリスマス前だった。
ちょうどその日の朝方、多分4時か5時頃下腹部の鈍痛で目が覚めた。まだ虚ろ虚ろしている中で、変な痛みがだんだん強くなり、私はトイレへ行かなければ、と駆け込んだ。そのとたん下腹部が、何か熱い針で切り刻まれているような鋭痛に包まれた。続いて、便意。大便をするのだけれど、私は痔か?と思うほど肛門が傷む。いちいち飛び上がらないと大便できないのである。それと同時に吐き気。袋を口に受けるのだが、胃が空っぽだからなのか胃液のみはい上がってきて何も吐きはしない。それがしばらく続く。下腹部がとにかく痛く、それと肛門の痛みで、とりあえず横になりたいのだが、それが出来ないのである。動けないのだ。また、便意もあるし吐き気もあるしでトイレから出ない方がいいような気もした。そんな状態で15分近くトイレに閉じこもっていた。そして、便意と吐き気が治まってきたところで、痛みを我慢しつつそれこそ赤ちゃんがハイハイをするような感じで居間までなんとか行きソファに横になった。その間も、震えるほど寒くなったと思ったら、裸になりたいほど暑く感じたり、の繰り返しであった。そして、5分から10分間隔で下腹部の痛みと戦うのである。その頃には、ただごとならぬ娘の叫び声に両親も起きてきて、私も含めてどうやら盲腸かも知れないと思い、その日の休日救急指定病院はどこかと調べはじめた。今思うに確かあれは天皇誕生日だったような気がする。救急車を呼んでくれればいいのに、父が、20分ぐらいかかるであろうその指定の病院まで運転すると言い出す。とにかく私はパジャマのままで、母は保険証を手に3人で病院へ向かった。
変なもので病院が近づくに連れて痛みが治まってくる。病院へ着く頃にはおなかがペコペコなのに気づきジュースを飲む気にまでなってきた。当直の医師は、場所が場所だしということで盲腸か調べるため血液検査をすると言った。結果はもちろん盲腸ではない。痛みも治まったし、確か外科の先生だったと思うので、どうすることも出来ず(何で休日救急指定病院なの?)とりあえずその日は帰ることとなった。その後は何事もなかったかのように普段は暮らしていた。
この日から大学を卒業するまでの5年間(1年休学していたので。)合計で確か6回ほど再び激痛に襲われたと思う。数カ月おきに、生理開始日の一日前後に起きるのだ。もちろんその他の月も生理痛はひどい。薬を飲んでも駄目なときがほとんどだった。だが、あの激痛に比べれば、のたうち回らなくていいだけ天国のようだった。それから一度、近くの産婦人科へ行ったのだが、その時は超音波では異常は見つからず、確か内診もなかったような気がするけれど、とにかく「生理中って痛いしね」という男性医師の言葉に「そうですね」とまだ無邪気に答えている自分であったのだ。
とにもかくにもこんな状態で大学を卒業し、某会社に晴れて就職することとなった。悪夢はまだまだこれからだった。
21/04/00
15/03/02(一部編集)