育児に関する独り言

 

 育児に関することは、日本語で書かれた物、英語で書かれた物、ドイツ語で書かれた物など、色々な書物を読んでいる。

 そこで思うのは、やはり日本での育児本や雑誌などには、「もうそろそろこれが出来るようになりましょう。」と書かれていることが多いということ。「子供に強いてはいけません。焦ってはいけません。」と書かれてはいるのだけれど、日本の物には、早め早めに物事が出来ることを良しとしているものが多い気がした。

 英語の物には、「You can do it!」系が多かった。ドイツ語の物には、その子その子をあるがまま受け入れようと書かれてあるものが多かった。他にももっと「教育論」なるものはあると思うのだが、どの書物も、それが100%正しいと思わず、自分なりに自分にあった解釈をすることが大事だと感じた。

 妊娠中に、ある教育方法の書物を読んで、子宮内膜症で手術をしたとき以来の、天地がひっくり返るほどの人生観が変わる衝撃を受けた私は、色々な人の論じたその教育方法を読み漁っていた。息子にその教育方法が合っているか、息子をその教育方法で育てたいか、ということはまだ分からないけれど、それより何より、私がこの教育方法で育てられたかった、と思った。

 主人と話してみたら、彼はやっぱりスイス人の端くれなのだ。「スイスの教育制度も、とっても良いものじゃないのかな?」と言われた。まあ、私達の間では、子供の言葉、そして基本的な良し悪しに関する考え方では共通しているし、仮に私が1000歩譲って、スイスの公共教育を受けさせたとしても、私が大いに関心を持っているこの教育方法を日常に取り入れていくことは可能なので、私自身ももっとスイスの教育方法を学んでいこうと思う。

 私達夫婦は、息子を英語と日本語で育てている。私は息子と日本語で話しているし、主人は彼と英語で話している。託児所や主人の知人、親姉妹と一緒の時はスイス・ドイツ語で話しかけられている。私と主人は8割方ドイツ語、時々英語、日本語で話す。

 こう言うと、よく「ネイティブじゃない言葉を子供に話しかけるのは良くないんだよー」「え?ご主人英語で話してるの?」などと言われるけれど、正直言って、私達の問題だから黙ってて欲しい。言葉に限ることではないけれど、子育てをした経験がある人でも、ない人でも、よその家族の教育をひっつかまえてあれやこれや言うのは馬鹿げていると思う。ましてや、自分の体験したことでもないのに「それは駄目なんだよー」と断定する人までいるから困ったものだ。

 とはいっても、実際、私達がこのような言語環境で息子を育てているのは、9割方「一体どうなるんだろうね?」という実験的な面白みを含んでいる。彼は多分スイスで、「自分はスイス人だ」という構えで生きていくのだと思う。そうなると、恐らくスイス・ドイツ語を母国語として、一番使える言葉として生きていくのだろうし、それで全然構わない。

 私も主人も、何も3カ国語、ましてやフランス語も入れて4カ国語を何不自由なく操る子に育って欲しいとは思っていない。ただ私達夫婦は、外国語を話して、それによって色んな国に行って、色んな貴重な経験をしてきているので、息子にもそんな体験をして欲しいな、その為には、(何不自由なくというわけではなく)操れる言葉が多ければ良いんじゃないかな、という考えでいる。

 勿論、日本語は、私の両親などとの意志疎通に必要だし、英語はやはり知っていた方がいい国際語になってしまっていることは否めない。

 うちは放任主義だ。野放し状態と言ってもいいかも知れない。危険なこと、されて嫌なこと意外はまず、息子のするがままにしている。でも、私が読書していれば、傍に来て、本に触ろうとするし、主人がコンピューターをしていれば、キーボードを叩こうとするしで、「だめっ!」と言う回数は多いのだけれど、、、。でもこれは、息子は何も悪いことをしてないわけで、息子の相手をしない私達の問題なんだけれども、、、。

 おもちゃなんかも、私が買った物といえば5%にも満たないんじゃないだろうか?殆ど貰い物だ。物をあまり持たせたくないというのがある。ゴチャゴチャとした部屋が大嫌いだというのもあるけれど、たくさん物があることが普通だとは、息子には思って欲しくない。

 私の育った家庭は、日々の食事には困らなかったけれど、貧乏だった。家庭内でも色々と問題がある家だったけれど、一つ学んだことは、物が無くても生きていけるということ。今の私の生活は、既に、”必要最低限”の域ではない。完全に物にあふれている。

 でも、なるべく息子には、シンプルな物から想像力を働かせるような、そんな人になって欲しいと思っている。生存力のある、自立した人間になって欲しいと思っている。

08/03/02