ボン君の成長記録(2才4ヶ月から2才6ヶ月まで)

 

このころ実家の母が来た。いつものごとく会えば私と彼女は喧嘩ばかり。まあなるべく息子の世話を頼んで私は、しなければならない溜まっていることでもしようかと思ったけれど、切符一つ自分で買おうとしない彼女に私の堪忍袋の緒も切れ、彼女の体調も悪くなりとまあ最悪だった。

それとこれとは全く違うことだけれど、息子はある日、一方通行逆走のピザか何かの配達のバイクにあと50センチほどで吹っ飛ばされそうになるという事件が起こった。その後しばらく息子は、夜中に目覚めては「ばいくこわかった」と言う日があった。

この頃偶然、何人かの知人から「あなたの子供もしかするとADHDでは?」と言われる。育児の本で目にした言葉で、何となく引っかかっていた言葉だったのだけれど、改めて特徴なんかを読んでみると本当にどんぴしゃりという感じで、色々な本を読み漁った。

ただこの病気は(ADHDは病気ではないという人もいるので誤解しないで欲しいけれど)幾ら早くても3才頃、大体は学校に行くようになってから診断がようやく着く、というものらしいので、とりあえずは”ADHDの子とどうやって付き合うか、どうやって育てるか?”的書物を参考に読む程度にしている。

それに、私自身まさにそういう子供だったし、今は逆にめんどくさがりというか、外出嫌いで動くのも嫌い。ただ、注意は散漫で色々なことに手を出す傾向はあるが、、、。

さてさて、息子の成長ぶりだけれど、おむつはまだまだ取れそうにはないけれど、お風呂前にオシッコを便器にすることが出来るようになった。

トラムなど乗り物が大好きで「あ、8番のトラム来たねー」などといっている内に、いつの間にか2,6,7,8,9,は読めるようになった。そのうえ6はひっくり返すと9,その逆もしかり、ということを自ら発見し、母としてはこの子は天才ではないかと親ばか気分に浸らせてくれたりもした。

グラン・カナリアへ旅した。ファミリー大歓迎のホテルだったので息子も大はしゃぎで毎日楽しそうだった。、、、でもただでは済まない彼。やっぱりすごいことをしでかしてくれた。

ショッピングセンターの看板の角に突進しおでこぱっくりハリーポッター、、、。最初は、ただぶつけて「ああ、痛かったのね」と思った私達だったが、髪をかき分けてびっくり。本当にぱっくりとおでこが開いてるのですぐさま救急センターへ。おどおどする両親を後目に先生は「これは縫わなくて大丈夫、消毒と、傷口が開かないようにテープを貼るだけ」と言い、ちょっと安心。息子も怯えている様子で心配だったのだけれどまあ、終わりよければ全て良しとしておこう。

それにしても消毒とテープ貼るだけで70ユーロとは、、、。トホ。主人も「まあ彼が無事なのが一番」と言っていたけれど「、、、でも僕がアメリカ人だったら絶対看板置いてた店を訴えたいところだけれど、トホ。」

まあそれを除いては、息子も同じホテルに泊まっているお姉ちゃん達に可愛がられて楽しい滞在だったようだ。それが一番。

一日中彼と居ると、彼も今のうちは一人っ子なわけで、私の注意を一心に受けたがるマミーズ・ボーイときている。私もかなりイライラして、声を荒げたりお尻を叩くこともあった。そこで、地元のGZ(んー、、、日本でいう公民館なんだろうか?)がやっている託児サービスに何回か預けてみることにした。

自分の母親は僕に何をするのか、の如く泣いたので私も心が痛んだのだが、面倒を見てくれる女性を私は気に入っていたので安心してエイッと預けた。2時間ほどして迎えに行ってみるとまた今度は帰りたくないといって泣く始末。本当に調子のいい息子。こんな感じを何回か繰り返していたけれど、まあ強行かとも思ったけれどこういうこともあるということを分かって欲しかった。

言葉の方も今は、創造と模倣の時期というのか、この頃は冬だったのだが月を見て「(ぼくもさむいけれど)おつきさんもさむいね」と言ったり、私が怒る真似をして「もー!!(そんなこと)しないよー」と言ったり。そして早速にも託児サービスから得たスイスジャーマンを言ってみたり。

もうすぐ2歳半という頃、お昼寝を止めてみた。6時すぎに起き、昼過ぎから3時頃まで2時間昼寝をし、夜は9時を過ぎてもなかなか寝ない日が続いたので、思い切って夜8時から7−8時まで寝るパターンを作ってみた。そしたらあっさりとこのリズムにはまってくれて、さすがに私も日中息つく暇がないのは辛いのだが、夜の静けさと、朝早くから起こされない安心感の方が勝った。

子供の記憶ってどのくらいあるのだろうと、興味はあったのだけれど、1ヶ月半前のことを覚えているということは分かった。というのも、私の母が置いていった毛糸の靴下を私が履こうとしたら「えー!?おばあちゃん、これくつした」と言ったので。

30/06/03